生涯未熟

生涯未熟

プログラミングをちょこちょこと。

私はこれでSNSをやめました

厳密に言うとSNSの積極的な利用をやめました。

きっかけとしては、人に教えて頂いたこのエントリでした。

dev.to

この記事を読んで「たしかに自分はSNSを使って何をしたかったのか?」と考えた末に、メリットよりもデメリットの方が大きいと判断し、やめるに至りました。

Twitterは自分にとって利用価値の高い情報を得るには都合が良く、知らない方との繋がりを生むこともある素晴らしいプラットフォームであると思います。

しかし、その価値のある情報を見つけるためにどれだけのノイズを目にしなければいけないでしょうか?
インターネット上での人との出会いは多ければ多いほど素晴らしいものなのでしょうか?

こういった疑問に対して、考えていきます。

情報について考えてみる

まずは情報について考えてみましょう。

Twitterを利用するにあたり、「欲しい情報」と「要らない情報」を分別してみました。

  • 欲しい情報:心にポジティブな影響を与える情報、知識への変換効率の高い情報、領域外のセレンディピティ的情報、知己の情報
  • 要らない情報:心にネガティブな影響を与える情報、知識へ変換出来ない情報、既知の情報、感心の無い人物の情報

上記に挙げた欲しいと思う情報は、大体の方は同じく欲しいと思う情報でしょう。要らない情報についても同じく。

さて、ここまでこの記事を読まれた方は「最近、欲しい情報を得た経験」をしましたでしょうか?
人によってはパッと頭に思い浮かぶかもしれません。それでは、思い浮かんだ方は次のことを考えてみて下さい。
「あなたはその情報を手に入れるまでにどれだけの時間を浪費しましたか?」

欲しい情報を手に入れるまでにかかるコストは少なくないということに気付きましたでしょうか。
果たして手に入れた情報はそこまでのコストを払ってまで得たかった情報でしたか?
今一度振り返って考えてみましょう。

また、要らない情報には自己の精神性に傷を付けるようなものもあり、情報を得ようとした結果、マイナスの影響を得るだけになってしまいます。
私の場合、エンジニアリングに関わる人々から積極的に情報を得ようとしていましたが、結果彼らの法的意識の低さなどにイライラすることも多々ありました。

Twitterのような受動的情報収集は現代における砂金採りのような印象を覚えます。
入ってくる100個の情報の内、1個でも素晴らしい情報があれば読み続けてしまう、という点をJoel Spolsky氏は「犬の躾」と表現されたのでしょう。
SNSは情報収集のツールとして無用の長物とは必ずしも言えませんが、非効率なため今ひとつ使い勝手に欠ける、と改めて気付かされました。

p-shirokuma.hatenadiary.com

こちらのエントリでは、「如何にノイズをコントロールするか?」といったことを論述されていますが、
コントロールにかかるコストと得られる情報の価値はトレードオフであるため、それならば敢えてネットライフの一部分を削ってみよう、 というのも情報爆発の現代において選択肢の一つとして有りなのかもしれません。

インターネット上での他者との交わり

Twitterにおける情報収集ツールとしての役割について、ノイズコントロールに非常にコストがかかり、非効率であるということは分かりました。
それでは、他者との交流という観点から見てみるとどうでしょうか?

過去を振り返ってみると、Twitterをきっかけに関わりを持ち、現在に至るまで交友関係を保っている方もいます。
そして、それが自分にとってプラスに働いたことは確かにあります。

しかし、そのおかげで他人の動向が気になるためTwitterから離れられなくなった、ということもまた事実でした。
自分自身の神経質な性質が災いしてか、流れてくるフィードに対して釘付けになってしまうという悪癖を生み、そこから集中力の低下・余計な情報のインプットといった悪循環を生み出していました。

こういった自分と他者という構図に身を置いた時、人は様々な感情が昂まります。

「他人の言動から前向きになりたい、多様な創作物から自己のクリエイティビティを刺激したい」というポジティブな感情から、「他人に認めてもらいたいといった承認欲求、他人を貶めたいというディスリスペクトな気持ち」というネガティブな感情といったものなど様々な感情が呼び起こされます。

そのような他者のアウトプットから影響を受け、人は行動の原動力としますが、基本的にはポジティブなインプットからはポジティブな行動・ネガティブなインプットからはネガティブな行動しか誘発されません。

さて、ここでJoel氏が仰る

残念なことだが、友人の大部分はTwitterでハッピーなニュースをシェアしたり、近況がどうなのか教えたりしませんでした。
(Unfortunately, those friends mostly didn’t use Twitter to share happy news and tell me how things were going.)

ということを考えてみましょう。

人間はどうやらポジティブな情報よりもネガティブな情報を好む性質があるため、どうしてもネガティブなインプットを受け取ってしまい、自分もネガティブなアウトプットをしてしまいがちです。

上記のポジティブ、ネガティブの人間に与えるインパクトに関しては以下の論文に詳しく書いております。興味のある方はご一読を。
Asymmetrical Effects of Positive and Negative Events: The Mobilization-Minimization Hypothesis

こういったネガティブな情報も一歩引いた目線でキチンと知識に変換出来る人物なら、上手くSNSを使っていけるのでしょうが、私には無理でした。
どうしてもネガティブな情報をそのまま受け取ってしまい、怒りや悲しみといった感情に変換され、辛くなってしまいます。

また、他者との交流の一端としての「議論」という面をとってみてもTwitterは文字数制限という、情報を伝える上で非常に厄介な制限があるため、議論を行うことは困難でしょう。
Joel氏もこの問題について以下のように述べています。

Yeah, I get it, this 140 character limitation was just a historical accident,
and now it’s 280 characters anyway, and you can always make a Twitter Story,
but the flame wars on Twitter emerged from the fact that we’ve taken a medium, text,
which is already bad at conveying emotion and sentiment and high-bandwidth nuance,
and made it even worse, and the net result is a lot of outrage and indignation.

ここまで考えて

果たしてSNSが齎したものは一体何だったのでしょうか?
無意味に愚にもつかない争いを引き起こし、人々に厄難を降りかけただけなのではないだろうか。

皆さんも一度、SNSから遠ざかってみると気付くことがあるかもしれません。

御清覧ありがとうございました。