書店員をやっていると様々な本に出会うことが出来る。
今話題のベストセラー本から昔から読まれている所謂名著まで。
しかしこれらの本を本当に「モノ」に出来ている人は何パーセントいるのだろうか?
私は自分自身の読書が本当に血肉になっているのか?と最近疑問に思っている。
そこで読書に対してもう一度考え直してみるのに読書術という観点から見直していきたい。
・資料探し
読書術と言えば様々なものがある。
例えば読み方から言えば斜め読みやら速読やら精読やらetc...。
読み方だけでも色々あるのだから本の選び方から読後どうするか、果ては本の置き方をどうするか?まである。
自分が「これだ!」と思ったものが必ずしも自分にとっての正解だとも言えない。
そこでまずは読書術という関連用語を含むエントリーを検索し読んでいった。
・読み方について
やはり「読み方」が大部分を占めていて、その他「内容の記憶」、「本の選び方」などが多かった印象を受けました。
「読み方」についてですが、私の場合は特に特殊なことはしていません。
あえて言えば重複して述べているセンテンスは余程のことじゃない限り飛ばしています。
既に知っている知識も出来れば飛ばしていきたいのですが、自分の知識と他者が知識が必ずしも合致したものではないので飛ばすことは敢えてしていません。
・選び方について
「本の選び方」では、直感に頼った選び方をしています。
最低限目次をチェックすることと、サラッと通読することはしていますがそれ以外のことはしていません。
何故かと言うと小飼弾さんの「新書がベスト」でも語られていますが、意識して本を選ぶとジャンルが偏ってしまうのです。
例えば、宗教について論じている本を読み「ではキリスト教はどうなのか?」という疑問を解決するため、そのことについて論じている本を買います。さらにまたそこで出てきた疑問を・・・という風に読書によって知の体系を形作っていきますが、この際大元のジャンルからは離れていきません。(この場合だと宗教について)
そこで適当選びが猛威を振るうのです。
適当に選ぶことで自分にとって全く未知の知の体系作りをすることが出来、それを別の知の体系と絡めることで新たなる発見を生み出すこともあり、知識の幅を広げるだけでなく様々なメリットを見出すことも出来るのです。
・記憶について
さて、最後に今回私が疑問を持つことになった「内容の記憶」について。
読書が血肉になった、と言える場面は本を読んだ上での知識を活用出来ることと私は考えています。
そして知識を活用するにはその知識自体を覚えていることが必要になります。
しかし、この記憶しているというのがクセモノで1度読んだだけでは余程印象を受けたものくらいしか覚えていないもの、しかもそれも時間が経つと曖昧になっていきます。
私自身も実際読んだ本の内容を全て覚えているかというとYESとは言えません。
この読書における「内容の記憶」について松岡正剛さんは「多読術」の中でこのように述べています。
「自分でその本を読んだのに、いざとなると語れない、思い出せない。 〜中略〜 そのうち「本は二度以上読まないと読書じゃない」という強い感想を持ったわけです。」
恐ろしいほどの読書量をこなす松岡正剛さんが最終的に辿り着いた内容の記憶術は「再読」だったのです。
更に、松岡正剛さんは再読に備えてのマーキング読書術を勧めているのですが、それについては「多読術」参照の程。
このような読書好きな方でも内容の記憶については1度読むだけでは無理、と断言しているには読書量に裏打ちされた経験からきていることでしょう。
実際私程度ではもしかしたら「再々読」くらい必要かもしれませんw
・最後に
人それぞれに読書術なんてものはあるわけで、それに対してどれだけ自分にフィットしたものを見つけれるか?が本を読む方にとって命題になります。
それを見つけだすのも読書の一つの楽しみ方であり、最終的な目標でもあります。
読書家の方々も箸休め感覚で読書術を熟慮してみてはいかがでしょうか?